老いの重荷は

旅のお供は米原万里「パンツの面目ふんどしの沽券」だった。
幼稚園時代に生まれた「キリストの下腹部は何でおおわれているのか」という疑問。アダムとイヴが前を隠したイチヂクの葉は、なぜ落ちないのか。大好きだった父親のフンドシ、あれはそもそもどこからやってきたのか。シベリア抑留の記録から明らかになった「拭かない」話。パンツを穿かない話。ズボンを穿くと叱られる話。パンツを穿かないなら女性の「月のもの」はどうしていたか。全編これ、古今東西の下腹部を覆うものの話である。
よくぞここまで、と半ばあきれるほどに追求の手を緩めない。巻末に付した『主な参考資料』は10ページにも及んでいる。日本語訳のものだけで200件近い。この真剣さ、注目している場所が場所だけに可笑しくなってもくるのだが、女性の「立小便」の話や野良で用を足す習慣などは、現在でも、奥会津ではたまに目にしてしまう光景である。

もともと、2001年から2003年まで『ちくま』に連載されたものだという。読者はさぞや楽しみに次号を待ったことだろう。単行本化にあたっては、ずいぶん時間がかかった。あとがきに、卵巣癌の発覚、除去、再発、そして悪性度の高い癌であることを、さらりと書いている。
『もともと、このテーマには全人生を捧げても間に合わないくらいと思っていたのに、人生そのものの時間がカウントダウンに入ってしまったのだ。』
無念であったろうと思う。この約一年後に、米原万里さんは他界した。56歳だった。

パンツの面目ふんどしの沽券 (ちくま文庫)

米原 万里 / 筑摩書房




駅構内の本屋で目についてパッと買ってしまったのが「50歳からの人生を楽しむ老後術」(保坂隆編著 大和書房)。保坂氏は精神科医だ。軽い書き方で少々物足りなかったが、最後のページにいいものが待っていた。102歳の人生を女優として生きた長岡輝子が晩年よく朗読したという、一篇の詩が紹介されている。


「最上のわざ」

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ 我が友よ、われなんじを見捨てじ」と。



東京イグナチオ教会の主任を務めた、イエズス会のヘルマン・ホイヴェルス神父の書「人生の秋に」の中で紹介している詩だという。
知らなかったが、日本の映画「ツナグ」の中でも使われたそうだ。

『老いの重荷は神の賜物』―この人生がいつ終わるのか、それは神様しかご存じない。今日、ただいまが、すでに私の最終章かもしれない。
そのときがいつであっても、重荷と感じられる様々な試練こそが恵みであると思えたなら、どんなに素晴らしいだろう。

人生の秋に―ホイヴェルス随想選集

ヘルマン ホイヴェルス / 春秋社


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# by kotoko_s | 2014-01-28 15:30 | 読む | Comments(2)

6日目の蝶

昨日は一日、外にいたので、帰宅後は家のことだけで手一杯だった。夜は疲れてパソコンに辿り着けず。
今日はずっと家にいたのだけれど、しなくてはならぬことが山積みで、それが一応、片づいたところで一日も終ろうとしている。
明日から月曜まで留守にする。

今日も我が家の蝶についてのメモのみ。

昨日の朝、初めて、ハチミツを薄めた水を吸った。
最初にやったのは深めの小皿だった。今度は浅い皿に蕎麦蜜(それしかなかった)を多めの水でとき、脱脂綿を入れて含ませ、綿棒を脱脂綿につけるように渡す。
蝶を綿棒にのせてみた。すると、綿棒を伝って脱脂綿までおりていき、すぐにふわっと口を伸ばして吸い始めた。

ああ、よかった。安心した。黄色いベゴニアの花に蝶をとまらせてみる。気に入るかどうかわからないが。
でも夕方、台所に立ちしばらくして戻ってみたら、蝶の姿はなかった。探してもどこにもいない。私があんまりしつこく覗き込んでいたのが嫌だったのか。蕎麦の蜜というのが合わなかったのか。

今朝、何度見てもいなかったベゴニアの鉢をもう一度よく調べたら、茂った葉の中に羽をたたんでじっとしていた。黄色い花が落ちているのかと思った。
明るいところに出してやったが、ほとんど動かない。もう飛ばなくなった。
そっと羽に触れてみる。かすかに震えるような気がした。
これ以上は無理かもしれない。
可哀想でしかたない。
仲間も知らず、暖かな明るい空も見ないで。
ごめんね。
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# by kotoko_s | 2014-01-23 23:47 | ある日 | Comments(0)

今日で4日、部屋の中に蝶がいる。
もしかしたらもっと早くに生まれていたのかもしれない。
雪の前に居間に入れた鉢植えの木瓜にとまっていた。部屋が暖かいので、羽化してしまったのだ。
「冬に室内で羽化した蝶」で検索すると、たくさん出てきた。よくあることらしい。
書いてあった通り、ハチミツを薄めた水を綿棒の先に含ませて近づけたが、吸わない。綿棒を伝って私の手まできて、じっとしている。
針で口の先をほどいて吸わせてやる、とも書かれていたが、なんだかおそろしくてできない。はじめの頃、一度だけくるくると口を伸ばしていたが、その後は見たことがない。前脚で味覚を感じるとも出ていたので、葉に甘い水を塗りつけてみたが、ちょっと前に出ただけであとはじっと動かない。

もう4日間(あるいはそれ以上)も、飲まず食わずで、部屋の中にいる。
最初は木瓜の葉を移動するだけだったのが、昨日からは明るい障子やガラスにとまっている。こうなったら、なるべく体力を保つために無駄に動かさないよう、障子の開け立てにも気をつける。

可哀想なことをしたと思う。蛹がついていることに気づいていたら、この鉢は部屋の中に入れなかった。
自然界で生きるのが蝶の一生だ。
花の咲く暖かな季節、条件のよいところで2週間ほどの命だという。

ひらひら舞ったとき、羽にぽつん、ぽつんとちいさな斑点が見えた。モンシロチョウだった。
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# by kotoko_s | 2014-01-21 16:42 | ある日 | Comments(0)

言葉

日曜日は、パソコンの電源を切ったまま過した。手仕事をしたり、家事をしたり、地域の集りに参加したり、アナログな一日を快適に送った。
メールも、くるのはほとんど広告か迷惑メールなのだ。
そもそも、火急の用であればメールなど使わないのだから、毎日見ないからといって別に支障はないのだった。

冬季オリンピックが始まるらしい。選手たちの言葉を聞いていると、つまらない気持になってしまう。
みんなおんなじ。緊張と高揚感で致し方ないのかもしれないが。
スポーツ選手の「勝ちに行く」という言い方、いつ頃から使われ出したのだったか。
勝負の世界なのだから、勝ちに行くのはあたりまえである。

東日本大震災のあと、ぞくぞくと出てきて今やすっかり古びた感のあるいくつかの言葉。
被災地を訪ねる番組などでは、今も必ず聞かれるのだ。そして聞くたびにうんざりした気持になる。
「絆」「勇気を与えたい」「元気をもらった」

たとえそれがどんなによい意味をもつ言葉や表現であっても、誰もが口にするようになった時点で新鮮味を失う。
まして、その言い方はおかしいでしょう、と思うような言葉をにこにこしながら話している場面をテレビなどで見ると、「ああ……」と居たたまれない気持になる。
「被災地のひとたちに勇気を与えられたらいいかなとは思っています」という言い方をいまだによく耳にする。
彼らはきまって「逆に元気をもらって」帰っていくのだ。

あの「いいかなとは思います」、あれはいったい、何なんだろう。
「いいと思います」となぜ言わないのか。
「いいかな」って、なんだ。せめて「いいなあ」でしょう。
しかも「とは思います」の「は」って、なんだ。
とは思う、と言ったときには、否定したい内容とセットであるはず、と思ったが。

なにより、「勇気を与える」とはなにさまのつもりなのかと言いたくなる。
これも定型の表現として、特に意識せず使っているのだろうが、不愉快だ。
「勇気を与える」という、言葉そのものではなく。
それを使う側と言われる側の立場というものを見たとき、気持のよくないものを感じる。
一方、自分の子どもに「してあげたい」と言っているのを聞くと、家族の中ならともかく、恥ずかしくないのかと思ってしまう。

ああ、うるさい、と思う。自分が。えらそうで嫌なヤツだと思う人もいるだろう。
それこそ、ナニサマのつもりだ、と怒られるかもしれない。それも仕方ない。

言葉には、そのひとの生きている姿勢が表れる。だから怖いと思う。
文字として残るもの、伝わっていくものはなおのこと。自戒をこめて。


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# by kotoko_s | 2014-01-20 14:02 | ある日 | Comments(2)

しんしんと

手仕事が始まると、本を読まなくなる。
それはそうだ。手元を見ながら本にも目をやるというのは無理だもの。
だから冬の読書の主な場所は、トイレになる。
トイレの棚に並べている数冊の中では、「富士日記」を開くことが多い。小説だと途中でやめるのが難しくなるから日記がちょうどいいのと、ここしばらく、長いものはしんどい気分。

「富士日記」は何遍も読んでいるが、今日、はっとする箇所があった。
『しんしんと暑い。』
山の家で過す夏の一日のおわりに、「しんしんと暑い。」とあった。

「しんしんと」の次にくるのは「降る」ではなかった。しんしんと降る雪、ではなくて、暑さの表現だった。
それから『夕焼けがした』という言い方が何箇所か出てくる。これもおもしろいなあと新鮮なのだ。夕焼けは「する」ものだったのか。当時、そういう言い方が普通だったのか。武田百合子の文章は、ごく普通の言葉で書かれているようなのに、紋切り型の表現や使い古された言い回しが出てこない。きっと普段から自分が感じた様子を、頭の中で既成の言葉に簡単に置き換えたりしないのだと思う。

辰濃和男「文章の書き方」「文章のみがき方」が好きで、これも時々読む。
今朝、「文章のみがき方」をぱらぱらしたら、ちょうど武田百合子のところが出た。その章のおわりに、宇野千代の言葉があるので抜粋。

『①毎日、机の前に座る。
②なんでもいいから、書く。間違っても「巧いことを書いてやろう」「人の度肝を抜くようなことを書いてやろう」などと思ってはいけない。
③最小限度の単純な言葉で、あなたの目に見えたこと、あなたの耳に聞こえたこと、あなたの心に浮かんだことを書く。』

画家のマチスが、毎朝決まった時間に画室に入り、決まった時間まで描いていたという話を、展覧会の図録かなにかで読んで、マチスが好きになった。あんなに自由闊達な印象の絵が生まれる前に、勤勉な日課があったことがなんとなくうれしい。才能だけじゃないのかもしれないと思わせてくれる。とにかく毎日、そこに自分の身を置いてしまうことからしか、なにも始まらないのだなと思う。
正確に書くということも、案外、難しいものだ。私が見たもの、聞いたこと、考えたり感じたり思ったりすることを、飾らずに素直に、正確に書く。これができたらなあ。その練習にこの場所があるのです。

毎日、まず座る、という話をしながら、明日はここを休もうと思う。
ここだけでなく、一日、パソコンの電源を入れずに過そう。手仕事と家族との一日。本もすこし、読みたい。


富士日記〈下〉 (中公文庫)

武田 百合子 / 中央公論社




文章のみがき方 (岩波新書)

辰濃 和男 / 岩波書店


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# by kotoko_s | 2014-01-18 23:09 | 読む | Comments(0)

 あれこれ


by haru
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